東京五輪がもたらしたもの

この世からコロナウイルスが消えたかのようなメディアの盛り上がりとSNS。夕方になれば感染者数の速報をしていたワイドショーは、もはやその影もなく、日本のメダル獲得やその結果に悲喜交々の様相を呈している。

 

開催前、「五輪が始まれば国民は、開催に賛成しメダルラッシュに沸き立つだろう」と予測されていたが、まさにその通りになっている。前日まで解任報道があった開会式は、何事もなかったかのように開催され、ある程度の批判と賛美であふれかえった。どんな内容だったとしても、起こり得る量の批判と賛美で、そんな批判も開会式の翌日には誰も覚えていないようだった。

 

ドイツでは洪水が起こり ーもともとのインフラに問題があったとしてもー 中国ではトンネルが埋まるほどの鉄砲水があった、750万人を超える被害者があったと。一説によれば6000人の死者があったともいわれている。その死者数は公的な記録として残されず、それを他国が批判することもなく終わる。

 

オリンピックの開催目的とは

スポーツが備えている力を活用し、良き手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などを人々に広め、人々の生き方を高めるための祭典であり、それによって平和な世界や人間の尊厳が護られた世界が実現することを目的としており、オリンピズムに基づいて開催され、そのオリンピズムを人々に広めるための祭典である。近代オリンピックの最重要の目的は人間の生き方を高め人類の平和や人間の尊厳を実現することであり、スポーツはそれのための手段である。

 (https://www.nittai.ac.jp/sports/basic/index.htmlより)

 

今回のオリンピックは「人間の生き方を高め人類の平和や尊厳を実現」できているだろうか。あの開会式が、これをこれから体現する大会であることを表現していたとは到底思えなかった。オリンピックは日本の成熟を示すものでもなく、東日本大震災からの復興を示すものでもなく、新型コロナウイルスに打ち勝ったことを示すものでもないはずだ。極端な表現ではあるがそんな小規模で短絡的で近視眼的な表現を、この世界最大級のイベントでやることではない。

 

という、ごちゃごちゃとした建前を述べたうえで、実際オリンピックとは開催国の威信をかけた政治的な催し物としては最大規模であり、1936年以降それは顕著に表れてきている。平和の祭典も第一次、第二次世界大戦と戦時には全く効力を示すことができず、そのうえ平和の祭典であるオリンピックそのものが、国を挙げてのメダル獲得競争となっているのが現状だ。ミュンヘン大会での事件や東西冷戦時にもそれらを解決することはできず、現在夏季大会の開催がこの灼熱の中であるのも米国の放映権の問題が絡んでいるとされる。

 

そんな拡大しすぎ、商業主義にならざるを得なかったオリンピックは、この東京で一時代の区切りをつけたといえるだろう。コロナウイルスによって変化した大会は、私の目にはまるでパラレルワールドのように映った。VIPのみ入れる客席、無料で飲める自販機、無人バス、実はこれらはコロナの前から大会では実施されてきた施策だ。しかし、外出することが悪とされ、酒類の提供が禁じられ、親せきと会うことが禁じられている我々国民との大きな差を、東京というこの地で行われていたことに国民が我慢できなかったのだろう。

 

この分断もまた今に始まったことではない。一億総中流社会はもう数十年前に終わり、言わば「勝ち組」と「負け組」に分かれ始めた。平時の社会はこの差を埋めることはなく、着実に拡大させていく。その差は平時には見えないが、有事ともいえる現在にはそれが顕著に表れ始めた。この差は政府やマスメディア、さらには他者に対する不信感となり国民の間に大きく影を落とした。

 

政府に対する不信感は、緊急事態宣言への不支持どころか不履行となって行動に現れた。マスメディアに対する不信感は、新聞の発行部数はもちろん、視聴率の低下に顕著に表れた。他者に対する不信感は共産主義新興宗教の拡大、デマの拡散に大きく寄与したことだろう。

 

このような分断の中、国民は強力なリーダーを求めている。強力なリーダーを求めるようになったとき、その国家は本当の終わりを迎える。それはアジアの再覇権を狙う隣国の習近平氏やソビエトの栄光を求めたプーチン氏、巨大なアメリカを夢見たトランプ氏のようにだ。世界の警察としての役割を失ったアメリカの没落は、現在の中東情勢をみれば一目瞭然だろう。中露に関しては言わずもがな、国内で大きな弾圧を続けている。過去には、ナチス政権の成立過程を知っていればわかるだろう。

 

国民が政治に関心を失っているうちはまだよかった。自民党がダメだだめだと呻いているうちはまだよかった。本当の危機とは、「時代が独裁者を求め」たとき、まるで静かな嵐のように忍び寄り、突然正体を現したと思ったときにはすでに遅くなっているのだ。我々国民が、一人一人が主権を持った国民であり、その「保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」ことを再度認識し、決して権利の上に眠ることがあってはならないのだ。