違和感の正体

タイトルをつけるまでもなかったのだが、就活の一環である企業について軽く調べたり、現在の状況下での各団体の動きを見ていると、大きく分けて4つに分類される。

①ただ被害に対して無力な団体

②全く別の分野に手を伸ばしている団体

③同じ分野でも違う方法で模索している団体

④元から影響が全くない団体

さて我々は所属している団体はどこに分類されるであろうか。あえて答えは申し上げないが、残念な結果になっているということは、我々が一番自覚しているところなのではなかろうか。我々は「大学対抗の女子大生アイドル日本一決定戦」を運営している団体ではあるが、それは小手先の言葉に過ぎず、このような通常とは違う事態の時こそ我々の存在を再定義していき続けなければならない。

では我々は如何様にして存在し続けることができたのか、について考えを深める必要がある。存在し続けるためには財の需要があり、その財を供給しつづけることができれば継続することができるのであることは一般的に申し上げたまでではあるがご理解いただけるだろうと思う。前述のどちらか一方の流れが止まってしまっても存在し得ることはできないし、その流れはあろうとも財がなければ何もできない。我々はその財を出場者、ハコ、お金などである。細かなステークホルダーを挙げていくときりがないが、これ以上のたくさんの財によって支えられている。ではなぜ、出場者は、出場するのか、なぜ我々実行委員が入り続けるのか、なぜお客様は来場なさるのか、なぜ協賛してくださる企業があるのか。と、その財一つ一つの需給の関係を論理的に分解していく必要があると考える。

例えば、なぜ出場者がでるのか。アイドルのコピーダンスを踊りたいから。ではなぜ、ただのイベントではなく、大会に出るのか。なぜ、アイドルのコピーダンスをしたいのか。オリジナルではだめなのか。なぜ、アイドルが好きなのか。なぜ、それを表現しようとしているのか。なぜ一人ではなく、サークルで踊るのか。など考えればまるできりのなようなことではあるが、この一個一個につき必ず論理的な回答があり、たとえそれは個々人によって異なるものであろうことは了解しつつも最大公約数的な解を求めていく必要がある。例えば一つの解として私が以前から申し上げているように(そもそも私の考えではなく、某先輩が申しあげていたことをただ受け売りしているだけであることは先に)承認欲求を消費する一手段である。確かに、人前でかわいらしいダンスを踊ることは彼女たちの承認欲求が大変満たされることは容易に理解でき、これはいわば非日常的ン承認欲求を得る手段であると考えれば絶好の機会であることは間違いない。この視点から考えると、承認欲求を得ることができればどのような手段でこれを満たしてもいいわけで、例えばティックトック、showroomのようなコンテンツが存在している現在、どうも我々がマストな存在ではなく、nice-to-haveの存在であることは我々の「界隈」の様子を見ればすぐにわかることで、おそらく我々が存在しなくなったとしても一時的な寂しさはあるが、そこまで各人の問題にはならないのである。なぜならば、承認欲求を満たすコンテンツは、ブランド物を身に着けたりする以前の満たし方もある。代替財はいくらでもある。そして我々実行委員はその承認欲求を満たしてあげることのできるコンテンツを提供する側であって、我々自身がそれを満たし始めたら我々の存在は、立ち位置が不明確となり、窮地に陥ると考えてよいだろう。我々がその欲求を満たしたいのであれば、別のコンテンツにて供給の一財として違う形でそれを満たすべきなのである。昨今、我々が率先してその欲求を満たしに行っていることが散見され、私としてはこのようなそもそもの存在意義自体が疑われる時期に、わざわざこのようなことをしなくてもよいのではないかと考える。そこまでしてその欲求を満たしたいのであれば、出る側になればよいのに、と思う。店員がその店の制服を着てわざわざその店で飯を食っているような違和感を覚えるのである。しかも、それは他人から丸見えなのであり、その内輪の会話を大声で話し。そこに店員が給仕をしに行きさらに盛り上がっているような光景になぞらえることができるであろう。それはなんと不快なことかはすこし考えればわかることであろうが、オンラインだとこの意識が薄れてしまうのであろう。仕方がない。まるでスターリンが生きている時代にスターリン批判をするようなものであり、この投稿が一切の非難を浴びることは明確ではある。だが、ここ数週間が私には耐えられないものであったため、申し上げさせてただいた。

我々が今しなければならないことは、目先の、しかも我々の内部の人間の欲求の解消ではなく、そして以前の状態に「戻す」ことでもなく、今まで存在し得た理由は何なのか、そしてこのwithコロナ、ポストコロナの到来に向けた施策は何があるのかを明確にし議論すべきであって、そこに対しての有効な手段の一つとして、我々の存在を再定義することは今できる最も有効な手段なのではないかと考える。