成功は定量的であるという仮説

 成功というのは定性的ではなく、定量的に測れるのではないかという一つの仮説を立ててみた。なぜならば、我々は貨幣経済という、貨幣を使用した定量的に測れるものの上で生きているからである。一つ、ここでいう我々とは、世界に住む非文明人を除いた人々のことであり、貨幣に一切依存していない人々については除く。

 

 さて、我々は、常に何かを行う時は必ず貨幣を媒介としている。その中で、明日を生き延びることや、今この瞬間を生きなければならないという切迫した状況下でなければ、将来は何をしようか、どうなりたいかについて一度は想いを馳せることであろう。その時に、各人、大人は「みんなそれぞれ違っていいんだよ」とはいうが、完全に文明から離れて暮らす、という夢以外はすべて費用計算でき、言わばその人の人生の価値観を定量的に表すことができるのではないかと考える。これは、机上の空論であることは違いないが、理論的には不可能なことではないと考える。また、その人の生み出すものについても、勘定することは可能である。もちろんこれも現在価値とみらい価値は全く異なるものであり、時間を経るにしたがってプレミアがつくものになっていくという可能性が高い。つまり、我々は、我々が生産した物に対して得ることのできる対価というのは、常に与える影響より少ない対価をもらっているということになる。話は若干それたが、つまるところ、我々が消費するもの、生産するものの両方は必ず定量的に測ることができ、其れの多い順で世間的に評価されていく、もしくは成功すると感じるのではなかろうか。もちろん、比較対象を移動させることで、成功したという基準を下げることが可能なのである。ただ、この成功したという基準は、その所有するモノと生産したこれまでのモノの価値の合計で表現されるのではないか。しかし、その両方を完全に試算しきることは不可能であり、ここを我々はあいまいにすることで、「成功の形にはいろいろある」という逃げ道を作っているのではないか。

 

 幸せな家庭を築きたいという夢、これを具現化していくと、子供が欲しいだとか、一軒家が欲しいだとか、はたまた好きな人と笑いあっていられるだけでいいという。しかし、子育てに莫大なお金がかかることは、容易に想像できるであろうし、好きな人と笑いあうためには、最低限暮らせるだけののお金ではなく笑いあっていられる時間の余裕を作るためのお金がいることは考えればわかることである。お金を一定量得たうえで、精神的余裕をも得たいとする考えなのである。つまりこれらの夢は実は「お金持ちになりたい」という夢よりもはるかに強欲的であるのではないかと考える。

 

 つまり、一見、定性的に見える夢や成功は、このように貨幣経済のせいで、定量的に測ることが可能になってしまったのだ。そして、グローバル化によって世界が成功の母数とされてしまった今、成功することが単純に難しくなっているのではないだろうか。これこそが、グローバル化の弊害であると私は考える。