砂に戻った器

1. 翼たちが描く地平

空は、あまりにも高い場所で完結している。

そこを横切る翼たちは、上昇気流の法則に身を任せ、ただひたすらに速度と高度を競い合っている。瞳に映るのは、次なる地平線と、互いの羽が弾く陽光の輝きだけだ。

地表に落ちる影は、一瞬のよぎりに過ぎない。

その影が、足元の土をどれほど冷やし、そこに根を張るものの静脈をどれほど凍らせたか。上昇を義務付けられた種族にとって、地上の微細な起伏や、沈黙するものの輪郭は、解像度の外側へと放逐されている。それは忘却ですらない。はじめから、存在の定義に含まれていないのだ。

2. 屈折率の致命的な乖離

かつて、同じ光の中にいたはずだった。

しかし、ある一点の衝撃を境に、世界の密度は急激に増し、深海のような重圧が支配する場所へと沈降した。

そこでは、地上と同じ言葉は響かない。

放たれる眩い「理解」や「慈しみ」という名の光線は、水面に触れた瞬間に鋭く屈折し、届く頃には、全く別の、冷たく歪んだ像を結んでいる。見られているのは、屈折が生んだ幻影に過ぎない。そして、手を伸ばそうとする対象もまた、遥か高い水面の向こう側で揺らめく、実体のない残像だ。

この媒体の差が、沈黙を重くする。

叫びは泡となって消え、指先が触れ合う直前で、物理的な法則が残酷に二つの領域を分断する。

3. 結晶化する空虚

「何とかしたい」という震えが、重苦しい水圧の中で、唯一の熱源として微かに脈打っている。

しかし、その熱さえも、冷え切った環境の中では鋭い結晶へと変貌していく。

繋ぎ合わせようとする意志そのものが、断面をさらに削り、修復不能な傷跡を深く刻み込む。

空っぽの器を抱えて、立ち尽くす。

その内側には、かつて湛えられていたはずの「温かな確信」の代わりに、ただ冷淡な静寂だけが詰まっている。

振れば、乾いた音がする。

それは、存在を承認されなかった者だけが鳴らすことのできる、透明な悲鳴だ。

4. 砂の帰還

砕け散った透明な記憶を、ひとつ残らず拾い集め、それを再び劫火(ごうか)の中に投じたとする。熱は破片を溶かし、再び滑らかな輪郭を与えるだろう。

しかし、そこに立ち上がるのは、かつての光を湛えたあの器ではない。

火を通るたびに、本質は少しずつ揮発し、その組成は永久に書き換えられていく。

残されるのは、かつての影を模した、美しくも温度のない、見知らぬ他人の標本だけだ。

一度砂に戻ったものは、どれほど祈りを込めても、二度と同じ透明度で水を守ることはできない。

憲政の常道の終わり

戦前とは違い、議院内閣制が制度化された現在では政党政治が終わりを迎えることがないと思っている。皆、そう思っている。

 

しかし、新型コロナウイルスの蔓延を機とした国内の分断は、極端な排外主義を孕み絶望的なものとなっている。

 

とうとう我が国に右傾化した内閣が誕生しようとしている。おそらく誕生はするだろう。このままいけば多数決で首班指名はできるからだ。ただもう自民党に力は残されていない。保守合同の旗の元集まった国民政党は巨大な音を立てて、右側から崩れ始めた。

 

同時に総理が戦後80年談話(公の立場ではないが)を出した。この総理はこう言っている。

 

石破首相: 「あえて敗戦後というけど、敗戦80年、昭和100年、そこで総理大臣をやっています。戦後50年、60年、70年、80年の節目としては、おそらく今年が最後なんでしょう。(戦後)80年に、とにかく内閣総理大臣、石破茂としてメッセージを出さなきゃいかん。これは使命感だった」

そう。戦後の節目は今年が最後なんだと思う。

もう次の戦争をする準備をしなくてはならない。とうとう日本は、東アジアは、平和を守る力を失ってしまった。私たち、今の20代が覚悟を決めなければならない。

 

数年の残虐な殺し合いとその後何年もの深い絶望に。来年、再来年怒ることではないと思う。でも考えて欲しい。九カ国条約の20年後には「敗戦」しているということを。

 

相手の立場に立ってみよう。中国にとっては「領土保全」を確認した6年後には支那事変が生起している。たった6年。

 

ウクライナで戦争が起きてから4年が経とうとしている。日本の太平洋における対英米戦争がすっぽりと入ってしまう長さだ。

 

 

もうすぐだ。もうそこに、戦争は来てるんだ。

毎回同じ

毎回同じ、

プライド高すぎてずっと比べ続けているの。

 

毎回同じ、

結局、努力はできなくて文句だけ言ってるの。

 

毎回同じ、

次は頑張ろうと思って、2日だけやるの。

 

毎回同じ、

2日しかやらないから何も残らないの。

 

毎回同じ、

何も残せない自分が辛すぎて、その場から逃げるの。

 

遠すぎる夢を見て

終わりがない劣等感に駆られて走り始めて

あり得ない怠惰によってすぐにやめて

硬い煎餅布団に横になって

何もやってない故疲れてないから寝ることもできなくて

頭が悪いから何かを考えることもできなくて

インスタのリール動画を見ながら日本酒を飲んで

ほとんど意識を失うように寝る。

 

 

 

 

 

身体が重い

最近、身体が重い。

毎日たくさんの良い友達に囲まれて生きているのに、首の付け根が締まっている感じがする。

 

身体も心もだいぶ離れたところにいて、ふわふわと浮いていて、蝶々結びした細っそい糸で繋がっている。

 

ありえないくらい大きい音で、新型コロナがなかった時代の曲を聴き、辛うじて目を開けて過ごす。

 

レールに乗っかる力もなかったけれど、レールから外れる勇気もなく。

 

勝負をしたかったけれど、勝負をする勇気もなく。

 

目の前のちょっと楽で、明るそうなところでダラダラとしている。

 

25年間ずっとそうしてきた気がする。

 

そのくせ、もうちょい良い革のソファが欲しくて、使い心地の良いソファを手放そうとしたりする。2種類くらい買ってみたり、ニトリに行ってみたりする。

 

丸の内でブランドもわからない高そうな家具屋さんをウィンドウショッピングして、指を咥えて、なんなら中から店員さんから声かけてくれないかなとか思ったりして。

 

どうせ客居ないんだから、「俺1人くらい中に入れさせろよ」とか思うけど、すぐに「ま、パーカースウェットの見るからに20代の奴入れるわけないか」とか思ったりして。

 

そんでニトリで妥協したところで、俺はその名前も知らない入れなかったお店のあの白いソファが頭の中に残り続けて、なんだか変な言い訳をし続けるんだと思う。

 

白とか汚れる。

ソファなんて汚れるから安い方が使いやすいんだよ。

安くて頻繁に買い替える方が衛生的だから。

 

とか、言っちゃって。ただ買うお金がなかっただけなのにね。

 

本当に欲しいのは、あの白いソファなんだろうか。

それとも、「言い訳」をしないで、ただ勝負できる勇気なんだろうか。

『弱者の戦略』再考 ― 私を追い立てる不安の正体と、その取り扱いについて

 

Geminiとの対話をGeminiにまとめてもらったものです。結論以外は、なんとなく合ってる気がする...


序論:焦燥感と無気力のサイクル
長年、私の中には一つの思考パターンが存在していた。それは、強い「焦燥感」に駆られて行動する時期と、全ての意欲を失う「無気力」な時期とを繰り返す、というサイクルだ。
この焦燥感は、行動のトリガーとなる一方で、常に精神的な負荷をかけ続ける。一方で、無気力は一時的な休息のようでいて、深い自己嫌悪を伴う。この両極端な状態を往復するメカニズムを客観的に見つめ直すことが、より持続可能な努力の方法を見出すための第一歩だと考えた。本稿は、その自己分析の記録である。
1.不安の源泉:生存戦略としての「弱者」
分析の出発点は、自分が無意識に採用していた「弱者の戦略」という思考モデルだ。これは、自身が持つ何らかの不利(容姿、能力、環境など)を前提とし、それを他の人並み以上の努力によって補うことで目的を達成しようとする生存戦略である。
この戦略が強く意識されたのは、過去の職場環境から脱するために大学院進学を決意した時期だった。この時の行動原理は「目標への憧れ」以上に、「現状から脱出できなくなることへの恐怖」に根差していた。恐怖を燃料としたこの戦略は、短期的に大きなエネルギーを生む一方で、恒常的な不安を内面化させる原因ともなっていた。
2.渇望の対象:金銭的安定から「権力と名誉」へ
一つの目標(大学院合格)を達成しても、この根源的な不安は解消されなかった。対象が「就職」や「金銭的安定」へと移り変わっただけである。
しかし、さらに深く内省を進めると、自分が真に求めていたのは金銭そのものではなく、より抽象的な「権力」と「名誉」であることが見えてきた。他者から軽んじられることのない、確固たる地位。そして、それを実現する最も合理的で普遍的な手段が、専門性を高め、「知識」を基盤とした権威を確立することだと結論づけた。これが、専門家への道を志した論理的な背景である。
3.理想像との乖離:新たな不安と「成果」への固執
だが、この新たな目標設定は、次の段階の不安を生み出した。「真の専門家は、趣味のように全ての時間を研究に捧げている」という理想像との比較である。休息や他の活動を必要とする自分は、この理想像に及ばない。その結果、「たとえ専門家になれたとしても、その集団の中では再び『弱者』になる」という、終わりのない競争構造を自ら作り出してしまった。
この抽象的な不安を、さらに具体的で強力なものにしているのが「成果の不在」という現実だ。特に「論文0本」という客観的な指標は、いかなる理念や長期戦略も「成果を出せなければ意味がない」という一言で無効化する力を持つ。
4.「非生産的な時間」の価値の再評価
ここで考察の対象となったのが、「将来の目的のために費やされない時間は、全て無駄である」という、自身に深く根付いた信念だ。例えば、趣味であるDJの準備に時間を費やした日を「無為だった」と結論づけてしまう、といった認知の癖である。
しかし、この認知は正しいのだろうか。アインシュタインがヴァイオリンを弾いた逸話や、多くのノーベル賞受賞者が芸術的な趣味を持つというデータは、示唆に富む。彼らにとって趣味や休息は、研究活動の対極にある「無駄」なのではなく、むしろ創造性を刺激し、精神的な健康を維持するための、研究活動と地続きの「必要な要素」だったと考えられる。
この視点に立てば、散歩や音楽に費やした時間は「非生産的な浪費」ではなく、過度なストレスからの「自己防衛・回復」であり、新たな発想を生むための「創造的準備」と再定義できる。
結論:持続可能な戦略への移行
以上の分析から見えてきたのは、私を追い立てる不安の正体が、「非生産的な時間を無価値と見なす、硬直した価値観」そのものである、ということだ。
真に持続可能な戦略とは、気力と体力を無視して稼働し続けることではない。むしろ、休息や趣味といった一見「無駄」に見える活動が、長期的な成果にとっていかに重要であるかを理解し、それを意識的に生活のシステムに組み込むことだろう。
畑が栄養を回復するために休閑期間を必要とするように、人間にも精神的な回復と滋養の時間が必要不可欠である。この当たり前の事実を認め、受け入れること。それが、「焦燥感」と「無気力」の振り子から抜け出し、穏やかで長期的な努力を可能にする、新しい戦略の要諦であると、現時点の私は結論づけている。

楽しい話

人生で、今が一番楽しいかもしれない。

それが真かどうかはわからないが、とにかく毎日が楽しい。

驚くほどに、朝起きることが楽しく、夜寝たくない。

 

朝希望をもって目覚め、昼(懸命に)授業を受け、夜感謝と主に眠る。

去年に比べ、将来の見通しが立たなくなったはずなのに。金銭的な不安はこれまで全くなかったのに、毎日値札を見る生活になった。常におなかがすいている。

 

それでも毎日が楽しい。鼻歌を歌いながら、駅まで歩いている。

留学生と話すのが楽しい。

論文読むのが楽しい。

講義を聞くのが楽しい。

講義後に講師とごちゃごちゃ細かい議論をするのが楽しい。

 

留学生と話す中で、自分の価値観が急速に相対化された。それでも、根っこのところは間違ってないこともわかった。

 

有り余る時間を使って、ひたすら脚注に書いてある論文を読んでいくのが楽しい。今日なんか51大綱の別表だけで3時間も使ってる。

 

好きな講義を聞いて、好きなことしゃべったら、よく考えているとかなんとか言われる世界に来ている。不思議だ。あんなに仕事ができなかったのに。

 

講師(たいていは教授だが)と、あんなに誰も理解してくれなかった論点で1時間も話しこんでいる。あんなに「もっと頭を使って考えなさい」と言われていたのに。なんだかものすごく頭が回る。この半年、全く動いてなかった(正確には、回っていたものの、歯が馬鹿になっていた)思考の歯車が、音を立てて、まるで昨日できたかのように回りだしている。

 

こんなわけのわからないことに、人生を賭けてみるのも悪くないかもしれない。お金をたくさん稼いで、裕福な生活をすることはもう無理だけど。

 

仕事は、一応休職しているけれど、正直戻る未来は見えない。だって今こんなに楽しいんだからね。最後に、仕事にしてもよいかどうかは見極める必要があるから、もう少し待つんだけど。

 

25歳にもなって、こんなに楽しい生活を送ると思わなかった。まだまだやり直せる。

ある上司は、「環境を変えれば、またもと通り、きっとうまくいくようになるはず。」と言ってくれていた。そうかもしれない。そう信じたい。

 

頭がひっくり返っても、高橋杉雄先生や小泉悠先生みたいになることはできないけれど、頭悪くたって、今やってるのが楽しいんだから、もうすこしやってみたい。

心の準備

母方の祖母が亡くなった。88歳だった。

 

4/24の夜、塾で勉強していると地震があった。震度を確かめるために見たスマホで、父から祖母の容態が悪い旨の連絡が入っていた。急いで授業を中座し、小雨が降る中、御徒町駅へ走った。心臓が掴まれていたような感触だった。彼女と話しながら心を落ち着け、京浜東北線に乗った。乗車時間は長いんだか短いんだかよく分からなかった。長かったような気もするし、短かったような気もする。祖母が持ち直していることを伝えられた。それでも、もう間に合わないんじゃないか、朝を迎えることはできないんじゃないかと思っていた。彼女から「心の準備をしたとしても、信じてたとしても、なにかあったときの悲しさはどうしたって変わらないなら、私は最後まで信じたいなって、きれいごとかもだけど思ったりする」そんなメッセージが来た。正直、綺麗事だなと思ったのも事実だ。準備してなかった時の衝撃の大きさは信じられないくらい大きいからだ。駅につき、タクシーに飛び乗った。病院への行き方もほとんど覚えてない。突然ついた。真っ暗の廊下を歩き、ナースステーションに向かった。トイレに寄ったあと、いつもの部屋に祖母はいた。228号室。彼女のベッドの周りだけカーテンがあった。中に入ると、酸素吸入器をつけた祖母がいた。看護婦さんが「お孫さんが来てくれましたよ」というと、口を動かして「はい」と返事をした。その後、祖母を覗き込むとこちらを見ていた。目があった。僕にしてはたくさん話しかけた。結婚を考えてる彼女がいること、大学院に行こうとしてるけど勉強があんまり進んでないこと。仕事がめんどくさいこと。最後、貴女の具合が悪いから病院へ行こうといってしまったことを後悔してること。

 

それでも、言えなかったことがある。祖母の呼びかけを無視したことを後悔してること。「れんくん」という今からの呼びかけをきこえているのにもかかわらず洋間にいる僕が無視をしたこと。小さい頃、祖母が磨く歯磨きの仕上げ中にかかる息が嫌だと言ったのを後悔してること。

言えなかった。結局言えなかった。

 

妹は韓国に留学している。ビデオ電話を繋いだ。一生懸命に今の身の上の話、近くに咲いている花を見せたり、海を見せていた。ビデオ通話だからできることだった。祖母は韓国に咲いている花を最後に見ることができたのだ。

 

0時を過ぎ、担当の看護婦さんが深夜は居られないことを告げに来た。翌朝8時までは入らないとのこと。8時。正直、8時間持つようには思えなかった。いつものように「よろしく」と言って帰宅した。

 

朝、「病院から電話があった」と母に起こされた。が、急いで準備をして、そのあとは歩いて病院に向かった。自販機で水を買った。

病室についた。ピーというけたたましい音が鳴っていた。間に合わなかったようだった。母の頑張れという声を直ぐにやめるように言い、お疲れ様と声をかけた。涙は出なかった。看護婦さんすら間に合ってなかった。1人で祖父の元に旅立った。老衰だった。

そこからは非常に淡々とことが進んだ。

親戚への連絡もスムーズに行えた。

 

祖母の介護負担が楽だったと言えば嘘になる。特に母は大変だっただろう。およそ4年間、ほぼ毎日、朝ごはん、夜ご飯を作っては横の家に運び、トイレの世話をし、夜寝かせた。朝起こし、ベッドから椅子まで運んだ。デイサービスへの送迎が来るまで準備をした。私は、時折祖母と一緒にご飯を食べたり、トイレに連れて行ったりした。ベッドから起こす際に一回骨折させてしまったこともあった。

 

病院へ入院すると、母は毎日見舞いへ行っていた。仕事終わりに走って行っていたそうだ。僕は時折、見舞いに行った。最初は、その風貌の変わり方に驚いた。正直、最初は行きたくなかった。単純に見るのがきつかった。

 

1月、彼女ができた。僕が最初に報告したのは祖母だった。祖母は「すごいじゃない」と言ってくれた。写真を見せるとかわいいと言っていた。3月、4月は1週間に1回程度行っていた。4月から面会制限が緩和され、15分だった時間が撤廃された。複数人でも面会できるようになった。4月に面会に行っても寝ている方が増えていた。ただ、昼寝しているだけだと思い、あまり深刻に捉えていなかったが、今考えると徐々に死へと近づいていたのだと思う。僕はただ、1時間やそこら横に座ってスマホを見ていただけの時もある。話すのは三言くらいだ。決まって彼女の話をした。彼女と歌舞伎を見に行った写真を見せると少し笑っていた。

しっかり話したのは、それが最後だったかと思う。「またよろしく」と帰ったが最後、次は呼び出しだった。

 

診断書の老衰の文字を見た時、本当におめでたいと思った。心から思った。それは自分への慰めなのかもしれないし、自己満足かもしれないし、防衛機制が働いてるだけかもしれない。ただ「仕方ない」と思える理由が探したかったのかもしれない。

でも今は、その診断書を本気で額縁に飾りたいと思っている。祖母を老衰にする介護ができた母のことを誇らしいと思っている。周りに自慢したいとも思っている。祖母は強かったんだ。人生をやり切ったんだと思いたい。

 

そして祖母は、僕らが精神的な準備と物理的な準備をする時間を十分に与えてくれた。

昨日の夜に会えたこと。入院してから3ヶ月以上頑張ったこと。

 

父ともしもの時の役割分担について話し合う夜をくれたこと。相続の最終確認をする期間をくれたこと。妹が帰国できるようになったこと。祖母と母と三人で外食に行けたこと。公正証書を作成したこと。

 

そのおかげで、スムーズに様々な準備が整った。悲しいことに集中できた。ただ、僕は、今は感情を抑え込んでしまっているように感じる。

 

ああちゃん、お疲れ様。ああちゃんからはたくさんのことを学びました。じいさんと一緒に相撲と野球、3年ぶりにゆっくり見てね。ありがとう。