心の準備

母方の祖母が亡くなった。88歳だった。

 

4/24の夜、塾で勉強していると地震があった。震度を確かめるために見たスマホで、父から祖母の容態が悪い旨の連絡が入っていた。急いで授業を中座し、小雨が降る中、御徒町駅へ走った。心臓が掴まれていたような感触だった。彼女と話しながら心を落ち着け、京浜東北線に乗った。乗車時間は長いんだか短いんだかよく分からなかった。長かったような気もするし、短かったような気もする。祖母が持ち直していることを伝えられた。それでも、もう間に合わないんじゃないか、朝を迎えることはできないんじゃないかと思っていた。彼女から「心の準備をしたとしても、信じてたとしても、なにかあったときの悲しさはどうしたって変わらないなら、私は最後まで信じたいなって、きれいごとかもだけど思ったりする」そんなメッセージが来た。正直、綺麗事だなと思ったのも事実だ。準備してなかった時の衝撃の大きさは信じられないくらい大きいからだ。駅につき、タクシーに飛び乗った。病院への行き方もほとんど覚えてない。突然ついた。真っ暗の廊下を歩き、ナースステーションに向かった。トイレに寄ったあと、いつもの部屋に祖母はいた。228号室。彼女のベッドの周りだけカーテンがあった。中に入ると、酸素吸入器をつけた祖母がいた。看護婦さんが「お孫さんが来てくれましたよ」というと、口を動かして「はい」と返事をした。その後、祖母を覗き込むとこちらを見ていた。目があった。僕にしてはたくさん話しかけた。結婚を考えてる彼女がいること、大学院に行こうとしてるけど勉強があんまり進んでないこと。仕事がめんどくさいこと。最後、貴女の具合が悪いから病院へ行こうといってしまったことを後悔してること。

 

それでも、言えなかったことがある。祖母の呼びかけを無視したことを後悔してること。「れんくん」という今からの呼びかけをきこえているのにもかかわらず洋間にいる僕が無視をしたこと。小さい頃、祖母が磨く歯磨きの仕上げ中にかかる息が嫌だと言ったのを後悔してること。

言えなかった。結局言えなかった。

 

妹は韓国に留学している。ビデオ電話を繋いだ。一生懸命に今の身の上の話、近くに咲いている花を見せたり、海を見せていた。ビデオ通話だからできることだった。祖母は韓国に咲いている花を最後に見ることができたのだ。

 

0時を過ぎ、担当の看護婦さんが深夜は居られないことを告げに来た。翌朝8時までは入らないとのこと。8時。正直、8時間持つようには思えなかった。いつものように「よろしく」と言って帰宅した。

 

朝、「病院から電話があった」と母に起こされた。が、急いで準備をして、そのあとは歩いて病院に向かった。自販機で水を買った。

病室についた。ピーというけたたましい音が鳴っていた。間に合わなかったようだった。母の頑張れという声を直ぐにやめるように言い、お疲れ様と声をかけた。涙は出なかった。看護婦さんすら間に合ってなかった。1人で祖父の元に旅立った。老衰だった。

そこからは非常に淡々とことが進んだ。

親戚への連絡もスムーズに行えた。

 

祖母の介護負担が楽だったと言えば嘘になる。特に母は大変だっただろう。およそ4年間、ほぼ毎日、朝ごはん、夜ご飯を作っては横の家に運び、トイレの世話をし、夜寝かせた。朝起こし、ベッドから椅子まで運んだ。デイサービスへの送迎が来るまで準備をした。私は、時折祖母と一緒にご飯を食べたり、トイレに連れて行ったりした。ベッドから起こす際に一回骨折させてしまったこともあった。

 

病院へ入院すると、母は毎日見舞いへ行っていた。仕事終わりに走って行っていたそうだ。僕は時折、見舞いに行った。最初は、その風貌の変わり方に驚いた。正直、最初は行きたくなかった。単純に見るのがきつかった。

 

1月、彼女ができた。僕が最初に報告したのは祖母だった。祖母は「すごいじゃない」と言ってくれた。写真を見せるとかわいいと言っていた。3月、4月は1週間に1回程度行っていた。4月から面会制限が緩和され、15分だった時間が撤廃された。複数人でも面会できるようになった。4月に面会に行っても寝ている方が増えていた。ただ、昼寝しているだけだと思い、あまり深刻に捉えていなかったが、今考えると徐々に死へと近づいていたのだと思う。僕はただ、1時間やそこら横に座ってスマホを見ていただけの時もある。話すのは三言くらいだ。決まって彼女の話をした。彼女と歌舞伎を見に行った写真を見せると少し笑っていた。

しっかり話したのは、それが最後だったかと思う。「またよろしく」と帰ったが最後、次は呼び出しだった。

 

診断書の老衰の文字を見た時、本当におめでたいと思った。心から思った。それは自分への慰めなのかもしれないし、自己満足かもしれないし、防衛機制が働いてるだけかもしれない。ただ「仕方ない」と思える理由が探したかったのかもしれない。

でも今は、その診断書を本気で額縁に飾りたいと思っている。祖母を老衰にする介護ができた母のことを誇らしいと思っている。周りに自慢したいとも思っている。祖母は強かったんだ。人生をやり切ったんだと思いたい。

 

そして祖母は、僕らが精神的な準備と物理的な準備をする時間を十分に与えてくれた。

昨日の夜に会えたこと。入院してから3ヶ月以上頑張ったこと。

 

父ともしもの時の役割分担について話し合う夜をくれたこと。相続の最終確認をする期間をくれたこと。妹が帰国できるようになったこと。祖母と母と三人で外食に行けたこと。公正証書を作成したこと。

 

そのおかげで、スムーズに様々な準備が整った。悲しいことに集中できた。ただ、僕は、今は感情を抑え込んでしまっているように感じる。

 

ああちゃん、お疲れ様。ああちゃんからはたくさんのことを学びました。じいさんと一緒に相撲と野球、3年ぶりにゆっくり見てね。ありがとう。