死生観

母方の祖父が亡くなった。87歳だった。

 

入院してたったの10日。前日までは普通に飯も食えてて、話もできてたらしい。

 

隣の家に住んでいた祖父は、なんでもできる背の高いハンサムな人だった。埼玉の田舎に住み、大兄弟の次男坊として生まれ、中卒が当たり前の中、都内の高校まで通っていた。

僕が生まれると、ヤクルトとスティックパンを持ってよく新幹線を見に大宮駅まで連れて行ってくれた。ただ新幹線の車輪を見るだけで数時間以上も過ごしてたこともあったそう。

小学生の頃は、ジョアを持って自転車で駅まで迎えにきてくれた。自転車に二人乗りで帰ったのを覚えている。

中学生になると一気に関わらなくなるようになった。隣に住んでいるのに、大きな声で話しかけてきたり、毎朝、手を振ってくるのが鬱陶しくなった日もあった。

大学生になり、家にすら帰らない日が続いた。そして、コロナ。久々に隣の家に頻繁に訪れるようになった。

たまたま何日か空いた。突然呼ばれたら祖父が居間でうずくまっていた。初めて見た祖父の弱い姿だった。例え、癌になって入院をしていても全く弱い姿を見せず、病院内を案内してくれた祖父の姿とは全く別に、男が男を捨てたかのような瞬間であった。うずくまっていた祖父に救急車を呼ぶことを告げると激しく叱責された。「俺のいうことを聞いてくれよ」初めて僕の前で「俺」という一人称を使った。祖父は「祖父」としてではなく「1人の男」として、弱っている姿を世間に見せたくなかったそうだ。救急車の中でも、足腰の弱い祖父のために「お湯を沸かしておいてくれ」「鍵の場所は○○にある」「冷蔵庫に賞味期限切れの○○があるから捨てておいてくれ」など、仕事一筋でのはずだった祖父が祖母のために家事を全てやっていた祖父に驚愕し、40度の熱が出ていたのにも関わらず家の心配をする祖父に尊敬の念を隠せなかった。

そんな祖父は熱が出たのものの数日で退院した。おそらく原因は疲労だろう。退院して数日し祖父に会いに行ったが、全くもって元気でこりゃしばらくしなねぇなと思い、コロナのワクチンちゃんと打ってくれよ、とか競馬やろうよとかいう話を散々した。ゴルフのスイングを教えてくれ、とも話した。

 

しかし、家に帰ると、遠い親戚から非道いことを言われ、それへの反骨精神なのか、またもや家のことを全てやりだした。精神にストレッチをかけすぎた結果すぐに入院してしまった。はじめ、病状はそこまで酷くはなかった。しかし、突然悪化し、そのまま亡くなった。

亡くなった日、ちょうど11時ごろだっただろうか。たまたま寝坊してしまった私は美容院のキャンセルの連絡を入れ、朝は朝飯を食べ始めた。天気予報では雨だったはずなのに、雨も降っておらず今日はラッキーだなと思いながらリビングに降りていった。なぜか母親には涙の跡があり、父親が慰めていた。(後から聞くと、何故か嫌な感じがしていて涙が突然出てきてたらしい)

食べ始めた直後、母親の電話が鳴った。危篤を知らせるものだった。はじめ、僕には電話の内容が分からなかったが、なんとなくご飯を急いで食べた。そして母が祖母に走って伝えに行ったとき、全てを察した。すぐにスーツに着替え、病院へ急いだ。祖父が危篤だというのに祖母が呑気に話していて、私も全く呑気に話していた。おそらく、死ぬことが受け入れられてなかったのだろう。今でも受け入れられないない。(2021/03/30現在)

病院へ着くと、医師が説明をしにきた。また経歴の浅い医師だったのだろう、非常に言葉を選びながら話している姿にやっと危機感を覚えた。病室へはコロナ禍のせいで2人ずつ入ってくださいと言われ、祖母と母親が先に入った。祖母と母の「がんばれ」という声に不思議な気持ちがあった。なぜなら、祖父が、誰かに「がんばれ」と言われている場面に遭遇したことがなかったから。

そして母親に代わり妹が入室した。妹が大号泣する声が聞こえた。「じいさん、起きてよ」「卒業証書持ってきたんだよ」「やだ」

僕の中で何かが崩れたように、心臓の鼓動が速くなった。そして、そのまま看護師に促され入室した。

庭でゴルフの素振りをしていたはずの祖父は、華に酸素吸入器を入れられ、入れ歯を外され、顎が動いているだけだった。

激しい酸素吸入音がし、高層階にあった病室の窓から入ってくる風と妹の泣く声が入り混じった空間で私はただ立ちすくむことしか出来なかった。祖母に促され、声は聞こえているから話しかけてと言われて「○○です。先日やっと就職が決まりました。ありがとうございました。」それだけだった。

言いたいことは今思えば沢山あったのに、僕は何も言えなかった。その時の僕は、目の前の人が死にゆく恐怖に呑み込まれていた。号泣する妹のことを羨ましく思った、そして尊敬した。彼女は死への恐怖ではなく、純粋に目の前の人への感謝の気持ちを存分に伝えることができていた。

そして、十数分が経ち、祖父が動かなくなった。医師が入り、診察を始めた。いわゆる死亡確認だ。聴診器を取り出し、胸に当てる。そしてライトを取り出し目を開け、(おそらく)瞳孔の確認をしていた。僕はその行為が恐怖で仕方なく、目を背けてしまっていた。そして、死亡宣告をした。確か12:15と言っていたように覚えている。

そしてそこで初めて祖母が「もう止まっちゃったんですか。」と声をあげて泣いた。それまでは悲しい顔一つせず、祖父を応援していた祖母。僕の前で泣くなんてことはなかった祖母が泣いた、大声で。僕には血も繋がっていない他人にそこまで思えるだろうか。

 

想起すれば、祖父母はよく喧嘩をしていた。お互いに小言を言い合っていた。病院まで来る時も冗談を言い散らかしていた。ベッドの横にいてもただ笑顔で頑張れ、と言っていた。

 

葬儀の手続きとなると途端に慌ただしくなり、そこからは一旦感情が途切れた。

病室では祖父の荷物の片付けをし、霊安室へ運ばれた。白い布を顔に被せられ毛布に包まり担架で運ばれている祖父は、まるで人ではないようだった。何か大きな物を運んでいるように思えた。

家につき、布団に寝かせた。白い布を取った祖父は黄ばみ、少し足が浮腫んでいた。

慌ただしく寝かせる場所を準備し、葬儀屋と打ち合わせをする父母。玄関に簡単な受付を作り、たくさんの親戚が来た。庭に少し列ができるほどだった。祖父が運び込まれた後、小雨が降り、庭の百合を濡らしていた。

 

いつか、僕はこの日を忘れてしまう。残念ながら記憶は永久ではない。だから忘れないうちに文字で残す。

 

いつか死ぬ。生を享受できる時間は有限だ。時間に対するROIは徹底して考えるべきだと強く再確認した。その最適化はやがて人生全体の最適化へとつながるはずだから。人生全体の最適化とは幸福の最大化。だから、1秒も無駄に出来ない。

 

死亡宣告をした医師は体が震え、呼吸器を外した看護師は表情は変えずにいたが、確かに手は震えていた。

静かな空間に響く呼吸器の音と隙間風の不協和音は耳の奥にこびりついていたはずなのに、もうすでに忘れかけている。

 

言葉を発せずに動いていた顎は何を伝えようとしていたのだろうか。僕の死生観とは、いったいなんなのだろうか。

 

祖父からいただいたもの。日本男児とはかくあるべきだというのは死してなお僕の中に生き続け、子孫へ必ずや継いでいく。

 

日本男児とは、沈黙を雄とし、弱い者を助け、正義の名の下においてそれに相応しい行動をすることである。