心の削れ方

朝のラッシュに比べ、この時間の電車はだいぶ少ない。そんな乗車率100%を超えるか超えないかの中途半端な車内は、酒を飲んで気を大きくした若者の声で溢れている。朝はあんなに人がいても声すらあげないのに。

新歓終わりで浮かれきって大声で歌ってる大学生と、灰色のスーツを着た口を開け、寝ているサラリーマン。パッと見ると真逆のようだが、「こころ」の具合は似たようではないかと思う。

前者は、この大事な大学生という期間にたった1000円やそこらで働かせられ、ぜったいにちがうけどまぁ仕方ないかと働く学生。こころは削れきっている。

後者は夢を諦め、お金を諦め、妥協しきったそのこころは削れきっていると言うまでもない。

我々は「仮面ライダー」や「アンパンマン」になりたいと思い、いつしか「サラリーマン」に、就活では第1希望でもない会社に「行かせてください」と頼み込み、生きるための当面の資金を稼ぐ。

恋愛だってそうだった。学年で一番可愛い子を追いかけていた。ライバルは多く、やはり無理だった。結局、高嶺の花だった。いつしか近くにいる女の子を好きだと思い込みとりあえず付き合う。女の子が好きではなく「女の子と付き合っている自分」が好きで付き合っている。

だが、僕はそれについては違った。中高男子校というのもあり、全く恋愛を知らなかった。もっと言えば、付き合いたいという気持ちすらなかった。同窓会があり、好きだという気持ちも芽生えた。(紆余曲折あり気持ちを一瞬持っただけだが)今となってはそんなことはどうだって良い。好きな女の子の意図してない「好き」という言葉に一喜一憂した。名前くらいしか知らないやつと話していると殴りたくなるほど嫉妬した。だがそんな僕も、一喜一憂しては心が少し削れ、少し我慢するたびに少し削れ、結果今は他のやつと同じくらい削れてしまったのかもしれない。もう僕は多少のことならなんとも思わないようにすることができるようになった。ツイートの通知は切った。その子のことの1%も知らないのだろうと思う。すでにそれ以上知ることはできないのだろうと思う。彼氏との手を繋いでいるトプ画だって見慣れた。いつしかトークを開かなくなった。好きだった理由も今となっては分からない。

 

人生19回目の春。人生3度目の初恋。初めてこの子のために生きたいと思える人が出来ました。(2019.4)

 

 

これを別れた後の2020年4月に敢えて公開する。

読んでみると、私は何を言っているんだ?と不思議な気持ちになる。「自分の人生の主人公は自分じゃなきゃいけない」バナナマン設楽さん

がおっしゃっていたことを思い出す。他人のために生きた1年間も悪くはなかった。ここに書いた通り、僕が好きだったのは「彼女と付き合っている自分」だったのだ。私がこうなりたくない、というまさにそのモノになっていたのだ。恥ずかしさの反面、もしかしたらこのような結末は想像し得るものであったのかもしれないとも思える。好きなのは「相手」なのか、それとも「相手に好かれている自分」なのか。前者の相手が見つかるかは分からないが、いつか見つかるだろうと信じて。