スポーツは勇気を与えないが、スポーツで勇気をもらう

スポーツで勇気を与える。そんなわけがない。観客としても、選手には選手自身のためにオリンピックに出て欲しいと思っているのが大半だろう。

 

しかし、私たち観客はスポーツで勇気をもらう。感動をもらい、国民の威信をそこに見る。彼らが勝った時の喜びは私たちにも波及され、それは生きる活力につながる。国旗掲揚での日の丸で胸が躍り、国歌斉唱では立ち上がって胸に手を当てその感動を噛み締める。

 

スポーツで勇気をもらうとは、観客のエゴの一つであり、擬似的な成功体験を積むことを選手を応援するということを通している、その結果の一つだ。

 

では、スポーツで勇気を与えようとするのは誰なのか。それは中間媒体の(ほとんど)すべてになる。マスメディアであり、スポンサーであり、SNSの住民だ。この部分の相違が視聴者との乖離を生み出し、選手との乖離を生み出すのだと思う。残念ながらスポーツそれ自体は感動を生み出すものではない。与えられたものが解釈した時点で初めて感動が発生し、勇気が発生する。選手自身もその仕組みを十二分に理解しているからこそ、試合とは関係のないような質問に憤りを覚えるのだろう。

 

実はスポーツに限ったことではない。絵画や音楽、街のスイーツに至るまでそうである。それ自体が「上手」であることや美しさ、美味しさを包含しているわけではない。絵画は単純に「絵画」として存在しているだけで「名画」として存在するわけではない。名画であるためにはその絵画を見た上で観覧者が「名画である」という解釈をした時点で初めてその人にとっての名画になる。

 

そのもの自体が評価や感想を包含しているわけではなく、そのものはそのものとして存在し、その評価はそれが誰かに触れた時、その誰かの中でのみその物に対する評価を発生させ、その評価は外部にもたらされることはあれど、それは外部の誰かへの評価に干渉することはあってはならないことなのだ。