主権か生きる権利か

今次ウクライナ=ロシア戦争に際し、ゼ大統領の総動員体制、徹底抗戦の姿勢には賛否が分かれることとなった。

 

もちろん、私がウクライナの判断に対し、何か評論する立場ではないことを承知の上で、仮に日本で「他国の実力部隊による合意なしの現状変更」があった場合に私たちはどうする(べきな)のか、について素人なりに考えてみたい。

 

第二次世界大戦時の国家総動員法と比べようとする者がいるがそれは大きく間違えているといわざるを得ない。侵略戦争をする際の総動員と国家存亡の危機に立たされた際の総動員では状況や意味が違う。

 

これまで主権が損害された国がどのような運命をたどり、国民がどのように蹂躙されたかは過去の歴史を少し学べば知ることになるだろう。その状況になった時、国民の生きる権利は、紙よりも軽んじられ、文化は永遠に消えることになる。アジアやアフリカの多数の国が自国の言葉で高等教育を学ぶことができない現実をみればどれほど損失を与えられ続けているかが十分に理解することができる。

 

他方で、今次戦争を見る限り、なくなっているのは10代20代の兵士が主で、若者の命が「損耗」していっているのはこの世の地獄である。未来ある若者が、戦場で命を散らすのは非常に残念なことのほかない。また、民間人も多く巻き込まれ、ニュースでは1歳半の男の子が爆撃で亡くなったという報道が流れていた。避難していた母子を迫撃砲で撃っていた、ただ通りかかった老夫婦の車が機銃掃射される、ただ過ごしていたマンションにいきなり巡航ミサイルが打ち込まれる、目の前で流れる動画を同じ世界のことだと思うには時間がかかった。シリアやアルメニア、アフガンでも同じ映像をさんざん見てきた。過去のさかのぼれば、ベトナム朝鮮半島でも同じ光景を見た。これ以上無垢の市民、若者がなくなるのであれば、戦争などさっさとやめて降伏するほうがいい、という意見になるのも頷ける。

 

確かに、どちらの意見も正しい。おそらく正解はない。しかし大局的に見たとき、前者が正解であることは違いない。なぜなら ー誤解を恐れずに言えばー 後者はたった多くて「数百万-数千万の損耗」で済むからである。文化が消え、人権が蹂躙されることは、回復され得ない傷なのである。もしくはその民族は永遠に地球上から消え去ることになる。生きている物のアイデンティティを含めすべて奪っていくことになる。もっと言えば、過去生きていた人々の記憶もまとめてなくなる。もちろん、若者や民間人が亡くなることで、負の記憶は続いていくかもしれないが彼らは祖国を守った英雄としての記憶になる。

 

日本の若者の男性の多くが、仮に日本で「他国の実力部隊による合意なしの現状変更」があった場合に自分はどうするのかを考えたことだろう。従軍するのか、逃げるのか。その場面になった時、おそらく圧倒的に前者の圧力が働くことは間違いない。従軍しなければ非国民扱いされる。メディアは国家のためと叫ぶ政治家のためではなく、大事な人のために筒をとる国民の多さに驚くだろう。「その時」のために心の準備くらいできる。