記憶と記録

「大記録達成」「最年少記録更新」そんな文字が新聞の見出しに踊る。「またか」記録など興味もない。ましてや最年少記録など記録するだけ無駄であろうと思う。何がすごいのだろうか。無論その記録を達成すること自体がすごくないと申し上げているわけではない。ただ年齢で分ける意味はないだろうと申し上げている次第である。他にも意味はないだろうことはある。「サッカー日本代表、W杯3大会連続出場」なんの意味があるのだろう。12年前と今ではすっかり中身が入れ替わり、「国籍」という括りのみ一致している(いた)集団を同じとみなしている。中身が変化すればそれは全く別物であろう。このように考える奴は少ないと思うがこういった数的記録には全く興味がない。

僕の興味ある記録とは「質的記録」と言える。このような言葉は存在しない。僕の造語だと思う。記録は永遠に残り、記憶は残らないとよくいう。本当だろうか。古代に先祖が書かれた「記録」は全て残っているだろうか。この間調べた検索記録は残っているだろうか。「残っている」ためには「見つける」ことが必要で、「消去」と「埋没」は同義だと考えている。古代の記録は数世紀かけ消され、現代の記録は情報の海に沈んでいく。だから、僕は写真が嫌いだ。いや、正確に言えば嫌いだった。上記の理由で残したところでなんの意味があるのだろう、と思っていた。最近、写真を撮った。否、撮っていただいたものを見た。そして、その時の記憶が鮮明に蘇る。初めて、記録に好感を持った。そして記録と記憶は繋がるのだと感じた。

今家にはほとんど使ってないカメラがある。そこそこの性能らしい。今度それを持って行こう。どうせなくなる記憶なら、記録を撮って少しでも長く思い出せる方がいいじゃないか。今はどうであれ、その時は、その時は、最高にハイッてやつだったんだから。僕の鼻の中にはまだ香りが残っていた...