民主主義陣営たる「我々」は何が出来るのか

日本経済の実態はスターリンも驚くほどの社会主義的な政策(国民性)ではあるが、我々の所属する自由主義と標榜するその「西」側諸国は、権威主義国を中心とする「東」側諸国に対し様々な圧力をかけている。それは自由主義陣営のボスである米国によるものが大きな部分を占め、その軍事力は比肩に成らないものだ。第二次大戦後我々その他西側諸国はその強大な軍事力を利用し身の安全を図ってきた。しかしその安全神話はこのCOVID-19によって最終的に崩されようとしている。

それが、欧州ではクリミア侵攻、ウクライナ危機、中央アジアではタリバン政権樹立、東アジアでは台湾危機など世界的には非常に不安定なことは素人目に見ても分かるだろう。

つまり、我々は①安全神話のツケを払わされるのか、②それともまた我々は独自路線を歩みアジアの主導的立場を取り戻すのか、③それとも全く別の何かか。

 

ここでひとつ私のスタンスをとっておきたいと思う。それは②我々はアジアの主導的立場をとるべきであることに今後の我々の行く末はあると思う。我々はアジアでは「98の運の2の努力によって」いち早くその主導的立場を固め各アジア諸国に侵攻していった。無論それがよかったとははなから思わないが、少なくともアジアの政治の中心として再登板する意欲がなければ、隣国中国に押し潰される未来しか見えない。米国の傀儡でもなく、中国の従属でもなく、両者の緩衝国でもなく。

そのためは、もちろん分かりやすい実力行使部隊を用意するとともに、国民としての意識づけを経っているすべきである

貴様は何のためにこの一年を生きようとするのか

今年一年の目標。

 

確かにこれまでは、大きかれ、小さかれあったような気がする。

反抗期の時代は「無病息災」だったかもしれないし、受験の時は「絶対合格」だったかもしれない。ただ、どの目標もよくて1月の2周目、長くて2月になれば忘れた。

 

ちなみに、聞くところによると、今年は「前厄」らしい。同じ年に生まれたからと言ってそろいもそろって全員「ハイ、今年が厄年です」なんて都合のいい制度はないと思うが、大卒であれば社会人1年目、2年目、3年目に何かしらのことがおきそうではある。特に2年目が本厄だそうだが、おそらくこのままではないだろうなという直感が学生ですらある。そこに漬け込む神社は何と上手いことだろう。ぜひリクルートと組んで頑張ってほしい。

 

さて、私はというと、昨年は人生の中で最悪な年だったといえよう。春は身近な家族の不幸に、夏は体を壊し人生初入院、冬には就活も失敗。とこれはもう、人生の最悪を煮詰めて三倍の濃さにしたような感じだ。タレにフラれて落ち込んでいた一昨年の自分に見せてあげたい。鼻くそよりもしょうもない話である。

 

まさか、親戚が敵になって家庭に襲い掛かってくるとは思わない。ドラマの世界が目の前で繰り広げられるなんて思わないし、当事者になるなんてもっと思わない。

自分たちが住んでいた土地をハイエナが買い叩きに来るとも思わないし、それを守るのは自分の腕一本だとも思わない。

 

そんなわけで、半分は意図せずして、半分は己の判断で、家族の生活が一気に私の腕にかかってきた。

こうなると話は早いわけで「(法に触れないことは前提として)どんな方法でもいい、とにかく金を手っ取り早く大量に稼ぐ」が当面の目標になった。

定量的でKPIは定めやすい。もっと言おう、これはボトムラインの底上げではない。トップラインをとにかく引き上げることだ。とにかく稼いで、稼いだ分は自己投資をする。その金でまた自分を売って稼ぐ。それを繰り返すしかない。ボトムラインの底上げはあとから十分にできる、固定費さえ上げなければ。

「仕事はお金じゃない」「世のためになる仕事ってなんだ」とかそんなのはノブレスオブリージュにすぎない。確かに周りは貴族だらけなので、それは一理あるのかもしれないが、庶民以下に転落した私にはそんなことは関係ない。とりあえず金だ。金がないと何も始まらない。稼がねば、明日寝るところがなくなる。「若いからこその価値」そんな悠長なことは言ってられない。

一円でも多く稼ぐ。今後数年は同じ目標になりそうだ。

俺らはM-1で優勝できる漫才師じゃないんだ

今日のTBSラジオ「ハライチのターン」での岩井さんの言葉だ。

 

以下ラジオでの発話。(一部省略)(うろ覚え部分は間違えている可能性)

「俺らはM-1で優勝できる漫才師じゃないんだ。

15年かけてわかった。

だが、それがいい

俺らは新しいパターンの漫才を作り続ける。

(中略)

俺らは漫才じゃなくて、M-1をやっていた。

これがなくて終わった芸人人生とこれがあった芸人人生は大きく違うような気がする。(略)

これからハライチの漫才が始まるんだ。」

 

今年はテレビ画面の前で祈るようにネタを見ていた。敗者復活戦のネタが始まった途端ハライチの凄みに涙が出てきた。

明らかな新ネタ。それをぶつけてくる岩井さんの勇気と完璧にこなす澤部さんの技術。プロとはなんたるやを見せつけられたように感じた。

だが、本当に見せつけにきたのはここからだった。

敗者復活上位3組が選ばれた時の岩井さんの顔。あの顔ほど「漢」の顔はないだろう。

そしてその後の決勝のネタ。場を支配していた。会場を、お茶の間を。

結果が出た後の顔とコメント。あえて文字にすればチンケになろうと思い書かないでおく。

我々は35歳の本気を見せつけられた。(その後に50歳の本気を見せつけられるのだが...)

 

僕は、その直前、人生に絶望していた。

自我が芽生えてから十数年。ただひたすら「いい会社」に入るためだけに何かしらの行動を選択してきた。

自分はやれば何でもできると思っていた。

そして何より「本気で挑戦した結果、ダメだったと告げられること」への恐怖で支配されていた。そして、たまたまの巡り合わせでとある企業を受け、落ちた。

本気で挑戦した ー少なくとも本人はそう思っているー はずだった。

でも結果は、箸にも棒にもかからず。

3年での逃げの就活のあと、4年になっての運命とも言える出会いとたった50日間の就活。

「特別に受けてもいいよ」なんて言われた日には、まるで自分が物語の主人公かのように感じたものだった。

 

落ちた翌日がM-1だった。

 

敗者復活で、それもラストイヤー僅差で1位に上げられた。しかし、即ダメだったと知るハライチと自分が重なった。

 

その後、毎日毎日「お祈りページ」を見ていた。いつかその文字が変わってくれないかと信じて。実は見間違えだったのではないかと信じて。

 

そして今日。1ヶ月半ぶりにハライチのターンを視聴した。そして、冒頭の言葉に戻る。

 

彼らは

M-1で優勝できる漫才師」ではなかった。

そして、僕も、

「新卒で勝ち上がり、順風満帆エリートコース。若き日本の救世主としてこの世で羽ばたくサラリーマン」

ではなかった。

 

彼らは点数で表され「9位」と表示されたように、僕は「お祈り」がマイページに表示された。

 

これから、彼らは「漫才」をする。僕は、、、

 

僕はまずはそこから考えなければならないようだ。しかし、M-1の経験が彼らに与えた影響は大きいように、僕もこの50日は大きな影響を与えるだろうと思う。やらないで社会人になったのとやって社会人になったのとでは大きく変わったのだろう。そう信じて。

 

勝率2%

718日に及んだ就職活動が終わった。

結果は3勝119敗。最後もまた、負けて終わった。

 

 

「中国本土での不明のウイルス」という報道があってすぐ、就活を始めた。2020年1月のこと。

元々五輪後ということもあり氷河期の懸念があったためということと、「なんとなく嫌な予感」の二つの理由から、急き立てられるように選コミュに応募したのを覚えている。

 

就活なんか俺にかかれば余裕だと思っていたが、夏までに応募したインターンのうち40社は面接1回目、GDレベルかその手前で落ちる。GDが13連敗というときもあった。それでも

「分かっちゃいないのは会社。俺が悪いわけない」

「グループメンバーの運が悪かった」

「面接官の質が低かった」

散々人のせいにし、そのまま冬を迎えた。

それでも数打てば内定は取れるもので、面接官と非常に相性の良かった1社に内定を決め、その後も数社から内定をいただき、ありがたく3年生の間に就活を終えることとなった。

 

地獄なのは4年になってからだった。周りの内定が気になり、就職偏差値、初任給、ネームバリュー、その会社のビル、何階に入居しているのか、散々調べ尽くした。1mでもその会社よりも低い位置にあると落ち込んだ。内定先が嫌いになった。早く転職しなくては「負けたまま」になる。1階でも上に、100円でも高いところに。強迫観念のように繰り返し転職サイトを見続けた。

 

秋、たまたまとった授業が某BIG4が提供している寄付講義で、そこではパートナーが授業をしていた。

何回かした後、別のパートナーはこう言った「受けたい人がいたら私に言ってくださいね。」

運命だと思った。そわそわしながら講義を受け、講義が終わった後、直談判した。

緊張して足が震え、何を喋ったのか覚えてない。

その後メールが来て受けてもいいことになった。

正直、この時点で受かったと思った。講義の後にパートナーに直談判する奴がいるわけない、その行動力でとってくれるだろう。そう信じていた。

Linkedinというサービスで強引に社員さんを見つけ、OB訪問をした。

用もないのに本社に2回も足を運んだ。「○○階-」と書かれたエレベーターの扉の前に立ち、来年の春はこれに乗るんだと信じていた。ビルの最上階に位置するところから東京を見下ろす光景を想像して夜も寝れなかった。

面接対策に200時間費やし、面接のメモは1万字に達した。計5人の社員の方、4人の友達と模擬面接などを繰り返した。

 

それでも、最終面接にすら辿り着けなかった。

 

僕は、見栄と戦い続けた。自分のプライドを守るため全力で戦った。

最後は神経痛で舌が動かなくなった。持病のアトピーは限界までひどくなり、会社名を聞くだけで嘔吐するレベルにまで追い込んだ。

 

俺は選んだフィールドで作業をすればなんでもできる、はずだった。ここでやると決めた勝負には必ず勝ってきた。今回も勝つ、はずだった。

 

僕は作業の方向性を間違えた。おそらく作業の量も足りなかったのだろう。それは付け焼き刃の対策ではなく、20年間の積み重ねで。

 

だから努力をしなかったと言える。

 

選んだフィールドも間違えてなかった。

運が悪かったわけでもない。

孤独な戦いだったわけでもない。

 

ただただ、努力をしなかった。こんなに「自己責任」というワードが当てはまることもないだろう。

 

 

2021総選挙、私の誤算と侮れぬ菅首相

2021/8/13 現在

 

前回、総選挙予想についての記事を書いた。

remion46.hatenablog.com

ここでは

3案を提示し、

A:9/5以降可及的速やかに解散、9/26or10/3総選挙、11月総裁選

B:9月末総裁選、10/3,10/10任期満了選挙、10/21衆議院任期満了

C:9月末総裁選、10/17-20解散、11/14or21総選挙

ではないかと予測した。しかし、実際にはA案を2週間遅らせたものが現実となった。

さてこの二週間の差について考える。

 

一度総裁選をちらつかせ、各派閥の出方や世論の出方を確認する期間だったと考えた。総裁選は今考えれば明らかにブラフであり、各派閥がどのように動くのか、牽制はどれほど効果的なのかを確認し、小選挙区での派閥間調整に一役買ったことだろう。実弾(金)をどこに撃つのかは昨今の選挙の至上命題であり、官邸主導である今の実質的な勝敗を決める。

おそらく、二階派を完全に支配下に入れ(るように見せかけ)、選挙中の足元をすくわれないようにした形だと考える。国民の頭は鶏よろしく、数日間分しか覚えていないのであるから、幹事長に発言機会を持たせず、党としての意向はなあ〱にしておけばよいのである。そうすることにより、野党にも攻撃(口撃)のスキがなく、「コロナ政策の失敗」といういかにも漠然としたものをもって戦わなくてはならない。アフガンにおいても自民党は一定の成果を上げ、外敵に関しても特にない。

つまり、自民党内を抑え込み、野党にも隙を与えず、外国勢力含むその他にも特段の憂いがない状態で臨むわけだから、総選挙の持って生き方としては非常に完ぺきなルートをたどっているとしか思えない。

誰が、いつ、どのように選挙に突入したとしても必ず議席を減らし戦うこの選挙において、どのような「減らし方」をするのかが焦点となってくる。ここで、減らすべきところには実弾を撃たず、自派閥の勝つべきところに実弾を撃つことで、よい減らし方ができる。その勝負の理由は、その後の総裁選で有利になるためであるとは言うまでもない。

 

菅義偉(とそのブレーン)は内政において相当優秀であり、野党は「選挙が苦手な菅さん」という先入観は捨て、政権交代などという夢をここでかなえようとはせず、美しくきれいに負ける方法を考えておく方が今後のためによいだろう。

秋の総選挙予想

2021秋、任期満了付近での総選挙が行われる。8/11のprimenewsを拝見したうえで、私的な予測をしてみたいと思う。

これにはCOVID-19の感染度合いが大きくかかわってくると考える。

おそらくこのインシデントは①中等症以上の感染者数/対策病床数(or救急搬送成功率)・②ワクチン接種率・③変異型に対するワクチン有効率の三点でおおよそ求められる。

 

①中等症以上の感染者数/対策病床数

これは感染者数を下げる施策と対策病床数を上げる施策の二点がある。感染者数を下げる施策は、残るところが都市のロックダウンとなるがそこまで踏み込むことは難しいだろう。よって対策病床数を上げる施策が考えられるが、人的資源にネックがある。よって補正予算を組んで早急にワクチンのように賃金を上げることであるが、まずは公的病院をコロナ専用病院にすることから始める。なんとかそれで対応できるが、極端に抑え込むというよりは上昇率を緩和させるのが限界だろう。よって、政権は対策の効果が少しでも見られた時点で総選挙をするべきだろう。

 

②ワクチン接種率

現在のワクチン接種率は、1回目終わりが44%、2回目終わりが34%と、非常に順調な滑り出しである。

しかし、これからワクチンの接種率は7割程度までは順調に上がるが、85%に届くのは難しいだろうと考える。

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私個人の調査による予測

上の青線が現状のワクチン接種数、これと同じように上昇すると考えたとする。また一回接種が終わった人は二回目はちょうど一か月後に摂取するとし、その接種は100%行われるものとする。すると1回接種はパラリンピックが終わる9/5には5割をほぼ達成し、理想シナリオでは9月末、下限シナリオでも10月中旬に6割が一回接種が終わる。よって2回接種は11月中旬には6割を終えている試算になる。6割の接種を終えるころにはある程度の感染者数が減っていることが考えられ、この数値のみを勘案すれば政権側は選挙を遅らせれば遅らせるほど有利となる。

 

③変異型に対するワクチン有効率

現状変異型とされるのはα型、β型、δ型の三種類が日本に流入しており、最も脅威とされるのがδ型である。CDCによれば

Vaccines in the US are highly effective, including against the Delta variant

とされ、現在のところワクチン有効率は非常に高いようである。一方で、

The Delta variant causes more infections and spreads faster than early forms of SARS-CoV-2

とも述べており、感染のピークアウトを妨げる大きな要因の一つである。

ただもし今後、ワクチンの有効性が低い(かつ感染力の高い)変異型が日本に流入してきた場合、総選挙を遅らせることは政権側にとって不利である。そもそも、その流入可能性がある時点で政権側は早めの総選挙をするべきだろう。

 

以上三点の数値から、自由民主党総裁選日程と総選挙日程について考える。

A:9/5以降可及的速やかに解散、9/26or10/3総選挙、11月総裁選

B:9月末総裁選、10/3,10/10任期満了選挙、10/21衆議院任期満了

C:9月末総裁選、10/17-20解散、11/14or21総選挙

 

一週間程度の齟齬はあれど、凡そこの三通りが考えられる。

日程別の選挙結果予想は以下の通りだ。(しつこいようであるがあくまでも個人の感想に過ぎない)

i)Aの場合、自民党単独過半数、自公で2/3確保、共産は続伸、その他与党は失速。

ii)Bの場合、自公で過半数確保できるも単独過半数や連立2/3は確保できず。公明と共産は続伸し、その他野党は失速。

Cの場合、

iii)コロナ対策が成功すれば(上記外部要因三点が達成されれば)、自民党単独過半数、自公で2/3確保、共産は続伸、その他与党は失速。

iv)仮に失敗すれば、自公で過半数も危うくなるところまで行く可能性すらある。共産党含む野党は大きく続伸。

 

以下が理由である

i)おそらく多少の自民党議席減少はあれど、野党も目立ったことはしていない中投票率の低下によって大きく助けられる結果になる。依然、消去法での自民党の傾向は続く。投票率の低下で公明・共産は数字を伸ばすだろう。

 

ii)総裁選は菅総理の一強は基本的には間違えないのだが、国民がそれに失望。おそらく二階氏ら党執行部の演出力にかかっているがそれは期待できないため自民党は失速。とはいえ野党にも希望が持てず、投票率が相当低下し、公明と共産は議席を伸ばす。

 

iii)コロナ対策は(一時的にでも)成功すれば、国民の間で一気に安ど感が広がる。その安心感のアピールで自民党は優勢に。単独2/3をうかがう位置までくる。野党は候補者を一本化する過程で共産に大きく妥協せざるを得なくなり、共産が続伸。

 

iv)コロナ対策の失敗は野党によって大きく喧伝され、自民は絶望的。公明は候補者擁立以外では独自路線をとる。野党はそれを武器に若干続伸するが、共産がいる影響で連立過半数は難しそう。

 

もし私が自民選対委員であれば、i)での突破を狙うのが安定だろう。今ここで圧勝する必要はなく、現状維持ができれば十分なのである。なぜならば、来年にはコロナはピークアウトし、経済対策を打つことができるようになると予想されるからである。野党の選対委員であれば、総裁選の終わりを待ちたいところであるが、自力解決できる問題ではなく、i)の場合での対策をすでに練っていることは間違いない。

東京五輪がもたらしたもの

この世からコロナウイルスが消えたかのようなメディアの盛り上がりとSNS。夕方になれば感染者数の速報をしていたワイドショーは、もはやその影もなく、日本のメダル獲得やその結果に悲喜交々の様相を呈している。

 

開催前、「五輪が始まれば国民は、開催に賛成しメダルラッシュに沸き立つだろう」と予測されていたが、まさにその通りになっている。前日まで解任報道があった開会式は、何事もなかったかのように開催され、ある程度の批判と賛美であふれかえった。どんな内容だったとしても、起こり得る量の批判と賛美で、そんな批判も開会式の翌日には誰も覚えていないようだった。

 

ドイツでは洪水が起こり ーもともとのインフラに問題があったとしてもー 中国ではトンネルが埋まるほどの鉄砲水があった、750万人を超える被害者があったと。一説によれば6000人の死者があったともいわれている。その死者数は公的な記録として残されず、それを他国が批判することもなく終わる。

 

オリンピックの開催目的とは

スポーツが備えている力を活用し、良き手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などを人々に広め、人々の生き方を高めるための祭典であり、それによって平和な世界や人間の尊厳が護られた世界が実現することを目的としており、オリンピズムに基づいて開催され、そのオリンピズムを人々に広めるための祭典である。近代オリンピックの最重要の目的は人間の生き方を高め人類の平和や人間の尊厳を実現することであり、スポーツはそれのための手段である。

 (https://www.nittai.ac.jp/sports/basic/index.htmlより)

 

今回のオリンピックは「人間の生き方を高め人類の平和や尊厳を実現」できているだろうか。あの開会式が、これをこれから体現する大会であることを表現していたとは到底思えなかった。オリンピックは日本の成熟を示すものでもなく、東日本大震災からの復興を示すものでもなく、新型コロナウイルスに打ち勝ったことを示すものでもないはずだ。極端な表現ではあるがそんな小規模で短絡的で近視眼的な表現を、この世界最大級のイベントでやることではない。

 

という、ごちゃごちゃとした建前を述べたうえで、実際オリンピックとは開催国の威信をかけた政治的な催し物としては最大規模であり、1936年以降それは顕著に表れてきている。平和の祭典も第一次、第二次世界大戦と戦時には全く効力を示すことができず、そのうえ平和の祭典であるオリンピックそのものが、国を挙げてのメダル獲得競争となっているのが現状だ。ミュンヘン大会での事件や東西冷戦時にもそれらを解決することはできず、現在夏季大会の開催がこの灼熱の中であるのも米国の放映権の問題が絡んでいるとされる。

 

そんな拡大しすぎ、商業主義にならざるを得なかったオリンピックは、この東京で一時代の区切りをつけたといえるだろう。コロナウイルスによって変化した大会は、私の目にはまるでパラレルワールドのように映った。VIPのみ入れる客席、無料で飲める自販機、無人バス、実はこれらはコロナの前から大会では実施されてきた施策だ。しかし、外出することが悪とされ、酒類の提供が禁じられ、親せきと会うことが禁じられている我々国民との大きな差を、東京というこの地で行われていたことに国民が我慢できなかったのだろう。

 

この分断もまた今に始まったことではない。一億総中流社会はもう数十年前に終わり、言わば「勝ち組」と「負け組」に分かれ始めた。平時の社会はこの差を埋めることはなく、着実に拡大させていく。その差は平時には見えないが、有事ともいえる現在にはそれが顕著に表れ始めた。この差は政府やマスメディア、さらには他者に対する不信感となり国民の間に大きく影を落とした。

 

政府に対する不信感は、緊急事態宣言への不支持どころか不履行となって行動に現れた。マスメディアに対する不信感は、新聞の発行部数はもちろん、視聴率の低下に顕著に表れた。他者に対する不信感は共産主義新興宗教の拡大、デマの拡散に大きく寄与したことだろう。

 

このような分断の中、国民は強力なリーダーを求めている。強力なリーダーを求めるようになったとき、その国家は本当の終わりを迎える。それはアジアの再覇権を狙う隣国の習近平氏やソビエトの栄光を求めたプーチン氏、巨大なアメリカを夢見たトランプ氏のようにだ。世界の警察としての役割を失ったアメリカの没落は、現在の中東情勢をみれば一目瞭然だろう。中露に関しては言わずもがな、国内で大きな弾圧を続けている。過去には、ナチス政権の成立過程を知っていればわかるだろう。

 

国民が政治に関心を失っているうちはまだよかった。自民党がダメだだめだと呻いているうちはまだよかった。本当の危機とは、「時代が独裁者を求め」たとき、まるで静かな嵐のように忍び寄り、突然正体を現したと思ったときにはすでに遅くなっているのだ。我々国民が、一人一人が主権を持った国民であり、その「保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」ことを再度認識し、決して権利の上に眠ることがあってはならないのだ。