研修はなぜ偽善的なのか

(新卒)研修は多かれ少なかれ偽善的であるように思える。その主語が大きい故は自分が知っている会社の研修はどこもそうであるから。

 

その理由を考えてみたいと思う。そう、殆どの研修で習うだろう「ロジカルシンキング」とやらや「仮設思考」を使って。

 

ジャストアイディアから申し上げれば

「宗教だから」

 

 

会社の利益を端的に表すとすれば

単位人あたりの利益×社員数

となる。つまり株式会社としての至上命題は株主価値向上であるから、

・一人当たりの利益をあげる

・社員数を増やす

(ただし現在地単位あたり利益がマイナスでないとする)

 

である。

こうなった時「社員数を増やすこと」はつまるところ採用活動、引き止めであるからさておき。

 

・一人当たりの利益を上げる

はどのようにすればよいかである。

 

これは業態によって異なり、

製造業のような資本集約型であれば如何に仕組みを作るかに重きを置き、

コンサルのような労働集約型であればより"理想的"な人材を確保することに重きを置く。

(もちろん、資本集約型に移行する方が会社としては安定し、拡大しやすいため仕組み化はするのだが)

 

では資本集約型ではどのような人が求められるのか。

仕組みを作る人orその仕組みに乗る人の2種である。

一般的に仕組みを作る方が仕組みに乗るよりも難しいとされる。また、仕組みを作る側より乗る側は人数(量)を必要とする。

これが一般企業の総合職採用と地元採用である。

前者に対しては部門ローテーションを始めとし、45-55のおよそ10年間を支えるために永遠と長い長い研修が行われる。しかし、その10年間は仕組みを作る側になることで莫大な利益を上げること(できれば、の話だが)ができる。

 

(若干話外れるが、この長すぎる投資と少なすぎるリターンに辟易し、「仕組みを作る人」を外注していることが今のコンサルティングブームなのではないかと思う。だから高級派遣と言っても差し支えないと思っている)

 

地元採用は簡単である。とにかく安く、最低限度の能力でいい。彼らはおおよそコストにしかならないからである。彼らは「かかってしまうどうしようもないコスト」なのである。彼らがいないと成り立たないのではあるが...

 

さて、本題の労働集約型である。

労働集約型は「理想的な」人材を必要としている。

・安く(長く)

・利益を上げ続ける

人材こそ理想的な人材である。

 

安い=長いは実質同義である。昇給させる方が新しく採用するよりよっぽどコストが低いからだ。この2つを兼ね備えるのが「宗教的である」ということだ。宗教は採用から始まる。長く続く面接に、無駄に褒められる内定者、意味のない高すぎる倍率。

 

そして何より

 

「入社おめでとうございます」

 

だ。

実は会社側としては「入社ありがとうございます」が正解なのである。我々労働集約型の社員は利益を産む鶏であり、鶏が居ずして卵は生まれない。しかし、これでは我々が逃げてしまう。だから、檻を作って逃げないようにする。もっといえば檻がなくても逃げないようにする。それの最も効果的な施策は宗教的にすることだ。

 

とはいえ、利益を上げてもらわなくてはならない。数ヶ月で人材を育てることなぞ不可能だ。

それが仕組み化である。どこがどう仕組み化しているかなぞ、自分がここに述べるまでもあるまい。

 

故に労働集約型の産業従事者の研修は宗教的なのである。

 

 

おわり。