もはや「銃後」ではない

もはや戦後ではない

 

1956年の経済白書に書かれた言葉として、今日よく知られた政治用語の一つである。

今日現在、私たちの時代はロシアのウクライナとの開戦により新たな時代に確実に突入したと言える。実際にそうなったのは米軍のアフガニスタン撤退か2014年のクリミア侵攻か、それは未来の歴史の授業で明らかになるだろう。

 

その時代とは「ポスト『ポスト冷戦』」だ。冷戦とデタントを「冷戦」、そこから中国の台頭で「ポスト冷戦」、そしてこれからのポスト「ポスト冷戦」に大きく分けられると考える。無論、中国の相対的な地位低下が見込まれるわけではなく、我が国の安全保障的な危機は全く去っておらず、危機はより一層高まっていると言える。

 

戦争は近くてベトナム、遠くてシリアなどの中央アジアから中東にかけて「米軍」がどこかの「組織」と戦っている時代は終わりを告げた。広義的な「銃後」の役割を果たしていた日本は強制的に我が国が前線であったことを思い知らされた。

 

そもそも自国の領土が不当に他国に占領されている唯一のG7構成国であり、第一列島線として中国に最も近い自由主義陣営国である我が国は最前線でないはずがない。

 

戦後、長らく見ていた話し合いの夢から醒める時がきた。昨日まで戦場でなかったとしても、5分前までバラエティ番組が流れていても、1秒までSNSが機能していても、我々の目の前にミサイルが降ってくる可能性がある。いざとなったら守ってくれるのは、ジュネーブ条約憲法9条ではなく、米軍やクアッドでもなく、我が国が保有する実力行使組織の実施する防空作戦だ。自らの国を守れるのは自分たちしかいない。それは今のウクライナを見れば十分理解できるだろう。

 

じゃあ我々はどうするか。国のためになどと思う必要はない、ただ大切な人を守りたいと思う気持ちで十分だ。その大差な人のために何ができるのかを考え、実行に移すことが我々の最もやるべきことだ。

我々日本人は、力によるいかなる現状変更も許してはならない。これはただの「平和趣味者」だからではない、かつての満州にあった生命線は世界中に及びそのネットワークこそが生命線であり利益線であるからだ。

ジリ貧ならばと一発逆転を狙ったかの大日本帝国と今のロシアを重ね合わせる人も多い。私も思わず満洲国の建国であるとアナロジー的な呟きをした。しかし、安易なアナロジーは解釈を歪める。当たり前だが時代も場所も原因も違うからだ。

適切な現状認識に基づく適切な危機意識とその行動が求められる。我々の日常生活は前線となったのだ。