坂の上の雲

    司馬遼太郎の「坂の上の雲」をご存知だろうか。何を隠そうこの本は僕が最も読んだであろう小説だ。秋山好古秋山真之という御兄弟と正岡子規の3人を中心とした短く言えば日露戦争の、長く言えば明治期の大日本帝国を描いてある。

    明治期の大日本帝国のイメージ、最低限の知識さえあれば「富国強兵」「殖産興業」この辺は既知かと思う。この言葉、どう考えても当たり前じゃないだろうか。国を豊かにし兵を強くする、産業を興す。これですらやっていなかったというだけで別に何か大きいものを乗り越えたとは言えず、ただ西欧諸国の追随をしただけでないだろうかと思う。しかし、西欧諸国にとって当たり前のことをそれまでノウハウがなかった文化圏に持ち込むとどうなるのか、結果はもちろん飛躍的な成長に繋がった。飛躍的な成長には犠牲はつきものなのである。この場合、当時の朝鮮や清は大日本帝国の成長の犠牲になったと言えよう。無論、僕はこれを良しとはしていない、だが、反省もする必要ないと考えている。なぜならば、朝鮮が、清が、近代化を我々より早くすればいいだけの話だったのであって、そこに彼らの反省すべき点があるのであって、我々は努力して成し遂げたわけだからなんの反省もする必要はない。

    話がズレたので本題に戻るとしよう。発展途上、いや発展すらしてなかった国はその発展途中、民族全員が同じ目標に向かって全力を尽くす。そしてそれらは確実に成果を残す。「坂の上の雲」それは、国民全員が向かった目標である。真っさらな青と白い雲が浮かんだ空の下子供たちが一切に走り出し坂を登る競争をするようなそんな画が脳裏によぎる。

    そんな「坂の上の雲」の最終章は「雨の坂」と名付けられている。単なる僕の考察ではあるが、白い雲からは雨は降らない。残念ながら坂の上にあった雲は黒い雲だったのだ。明治期の大日本帝国臣民が駆け上がった先には、日中戦争大東亜戦争と続く長い長い忍耐の時代であった。坂をかけ上がれた全国民の奢りがそうさせた。坂を駆け上がるのに全力で工夫していたのに、それにも気づかない一般大衆とそれにより選ばれた政治家が狂わせた。

    さて、今停滞している我々に何ができるのだろうか。数年前から上ってきただろう坂はもうない。これ以上の急成長はない。ここからが我々の勝負だ。坂を駆け上がった(かけ上がれた)時代の人の話はもう手遅れだ。駆け上がった時代を知識として知り、駆け上がった後に入った自分たちしかできない考えがあると信じて。後1ヶ月弱、頑張ってください。